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あの李昌鎬が33年も乗り越えなかった山とは?

元リンク:https://www.foxwq.com/news/listid/id/13133.html

サイト:野狐囲碁

原作者:丁未

 

1989年、当時まだ14歳の李昌鎬が、第2回世界囲碁選手権富士通杯の舞台で姿を現した。同時の世界戦は一年で1回か2回しかなく、三四十歳の中年が統治している世界だ。あの頃まだ子供っぽく、それに大きいスーツで包んでいる李昌鎬に容赦なく評価していたが、数年後この子が後に無敵になることが、当時誰も感じなかった。

 

 

李昌鎬のデビュー戦はうまくいかず、14歳年上の中華台北代表の王銘琬の前でボロ負けを喫したのだ。「天才少年はそこまでか」のような声が当時ちらほら聞こえてきた、彼を盛大に期待していた韓国記者が「なぜこのような相手の前で、こんな簡単に、情けなく負けてしまったのか」という酷評を与えた。

 

 

 

それから33年の月日を経て、李昌鎬は17回(訳者注:中国基準では17回)の世界戦制覇を果たした、文句なしの現代囲碁界最強棋士も、今年47歳になった、世界戦の決勝戦から10年も遠ざかっている。今回韓国主催の新安国際シニア囲碁大会では、彼のためにルールを変え、ワイルドカードで参戦した。李昌鎬の「シニア大会デビュー戦」が注目を集め、大会前の雰囲気はまるで李昌鎬が優勝するように用意してきた。

 

 

しかし、世の中では奇妙なことがある。1989年李昌鎬の世界戦デビュー戦の相手は王銘琬、2022年李昌鎬のシニア大会デビュー戦でまたもや同じ相手になった。囲碁界が数十年興味津々に感じてたように、李昌鎬はまさに「初見苦手」である、相手が60代にしても、本局では完全に王銘琬の「ゾーンプレス」にはめられ、最後の李昌鎬は玉砕になってしまった。名前を伏せば、誰もが黒番の棋士は実は一時全く動揺せず、「無」の状態まで達した天下人である。

 

 

佳人薄命、「石仏」も浮世へ帰還。李昌鎬にとって、王銘琬は極一部複数対戦で成績が負けている棋士の一人である。1989年第2回世界囲碁選手権富士通杯で敗北を喫した後、1996年の第9回同大会準々決勝で一矢を報い、最後で優勝を果たした。2002年第15回同大会の3位決定戦で三度目の対戦、最後は王銘琬の半目勝ちで、3位を獲得した。2006年第6回農心辛ラーメン杯世界囲碁最強戦、李昌鎬は伝説の「鉄のゴールキーパー」で5連勝を果たし、第13戦の相手は王銘琬だった。同年の第2回中環杯世界囲碁選手権戦一回戦、王銘琬は再び半目勝ちを手にした。

 

 

この二人が世界戦で活躍していた時期、王銘琬が李昌鎬の前に3勝2敗の勝ち越し、「ヨセの神」の前で2度も半目勝ちの奇跡を果たしたのだ。17年の月日を経て、思い出作りのシニア大会にて、王銘琬がリードを広げた。AI時代の前に、師匠がなくほぼ独学で這い上がった王銘琬の棋風が、「天馬空を行く」のように独特であり、「ゾーンプレス」と呼ばれた。趙治勲も王銘琬が早期人工知能と似ていると評価するほどであった。「AI時代未明時代」の王者の前で勝ち越したことが、王銘琬の最大の功績と言ってもいいだろう。

 

 

6月22日に行われた準決勝、小林光一との一戦、黒81手のブツカリから一気に中央へ押し付ける、単純な荒っぽい手法は、まさに本物の「ゾーンプレス」である。