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戦鷹:ある囲碁女性棋士の「限界突破」

元リンク:战鹰:一个围棋女孩的突围 (qq.com)

サイト:『人物』公式アカウント

企画:『人物』編集部

作者:戦鷹 二段

 


2023年は、戦鷹にとって「突破」の年でした。プロ棋士としての9年目でありながら、彼女の人生はまるで「行き止まり」のように感じられました。彼女は韓国語を学び、ライブ配信を始まり、解説をしたり、いろいろな試みをしましたが、どれも大きな成功を収めることができませんでした。囲碁のインストラクターに転身することを決意した時、運命の歯車が動き始めました。あるライブ配信にて、ネットユーザーの一言に、「号泣」してしまいました。そして、その真実の瞬間が人々の心を心を打たれました。

 

誰もが全力を尽くしても報われない時があるかもしれませんが、不思議なことに、これが戦鷹と若者の共感点になり、普通の人間と同じ気持ちを持っているからです。この出来事により、戦鷹はプロ囲碁界から「突破」し、囲碁の「普及者」、「宣伝者」として,女性棋士のより多様で活気のあることを広がるきっかけともなりました。

 

しかし、これは戦鷹が人生で初めての「突破」を果たした出来事ではありません。幼少期に囲碁プロ棋士の「狭き道」を選んだことや、19歳の時にプロ試験の「狭き門」をくぐり抜けたことなど、戦鷹は常に彼女の名前通り、「勇敢で、決して諦めない」姿勢を貫いてきました。

 

 

みなさん、こんにちは。戦鷹(せんよう)と申します。囲碁プロ棋士であり、現在は囲碁のライブ配信や解説も行っています。

 

ここにいる皆さんが囲碁を打つ人や、このスポーツに興味を持っているかどうかはわかりませんが、今日はこの15分間を通じて、私の物語を聞いていただき、私たち囲碁棋士について少し理解していただきたいと思います。

 

私は6歳の頃から囲碁を学び始めました。最初は地元の少年宮(※中国における小・中学生のための課外教育施設)を通いましたが、半年後には河北省の囲碁大会で6位に入賞しました。両親は私に何か特別な才能があるのではないかと感じ、積極的囲碁を学び始めました。

 

8歳になると、私は頻繁に河北省の大会で優勝するようになりました。囲碁の入門先生は、真剣に両親に私を囲碁プロ棋士の道を試してみることを考えても良いのではないかと提案しました。囲碁プロ棋士になる選択するということは、学校に通うのをやめ、囲碁に専念するということです。

 

私の家族は囲碁家庭ではなく、父親は戦闘機のパイロットであり、母親は教師です。しかし両親は子供に才能があると感じ、それを無駄にしてはいけないと考え、勇気を持って私を囲碁プロ棋士の道を選びました。私を囲碁に専念させるために、母親は休職し、私も学校を休学しました。私たち二人の囲碁ずくめの世界になりました。

 

最初は河北省で囲碁を学び、母は私を連れて、プロ棋士がいる囲碁学校へ行き、囲碁を学ぶために河北省の強豪達を全部訪ねました。その後、母は私を北京の道場に連れ、より過酷な環境に入りました。それが私が12歳の時のことでした。

 

北京では、朝8時半から囲碁の勉強を始め、夜8時半まで続けます。その間に2回の食事を取り、夜8時半に家に帰ると、親はさらに勉強を続けるように促し、10時半や11時まで続け、その後は寝るだけです。翌朝8時に起きて、また新しい一日が始まります。毎日が同じパターンでした。そのある日、友達と昼食を食べた後アイスクリームを買いに行く時、それを母親に見つかり、自分はきっと母はどうしてこの時間を囲碁の勉強を使わなかったのかと思われるだろうと思いました。

 

10代の子供にとって、このような生活はかなり窮屈です。私たちの囲碁の先生も言いました、時々10代の子供たちを見る時、人生で最も外向的で活力に溢れた時期に、道場に来て、まるで修行に来たかのように、全ての集中力を囲碁に捧げ、自分の欲望を抑えなければなりません。

 

15歳の時のある出来事がとても印象的で、それは人生で初めてカラオケに行った時、当時自分は何か大きな過ちをしたような気分になりました。自分は本当にいい子ではなく、とても悪い子だと感じ、罪悪感が感じました。

 

このプレッシャーの源は、囲碁界の大学受験と言われる「定段戦(プロ試験)」のためです。定段戦に合格しないと、プロ棋士にはなれません。つまり、定段戦を通過することは、プロ囲碁の世界への入場券となります。先ほど話しましたが、囲碁プロ棋士になることを選択することは、「狭き道」を選択することであり、定段戦はその「狭き道」の「狭き門」です。この「狭き門」はどれほど狭いのでしょうか?中国囲碁協会は1962年の設立以来、1000人以上のプロ囲碁プレーヤーが誕生しています。つまり、過去の62年間で、たった1000人以上が定段戦を通過したということです。

 

 

私のプロ受験の道も非常に順調ではありませんでした。12歳の時に北京に来て、19歳でプロ入り成功するまで、8年もかかりました。

 

私は心の中から囲碁が好きで、それは究極の知的競争です。私たち棋士は対局中碁盤で碁石を打ち、話などをしませんが、お互いの力を感じます。それは無音の中で生まれる魅力は、時々心を打たれます。自分はもし純粋に強制で囲碁を学ぶことであれば、自分は何年も続けることはできませんでした。

 

しかしこの8年間、私は一本の丸木橋を歩いているように感じました。道場には各地から囲碁を学ぶ子供たちが集まり、彼らは私と一学期、一学年、または数年間一緒に過ごすことがありますが、ある日突然姿を消します。これはよくあることで、ある時期にはとても仲良く過ごし、数ヶ月後には姿がいなくなり、その後、二度と顔を合わせることがなくなりました。

 

多くの人が諦め、特に成績が悪い場合、子供自身から親まで、私たちは故郷に戻るべきか?もう学ばない方がいいのか?今だったら間に合う、もう2年遅くなったら学業も追いつかないかもしれない、と感じることがあります。

 

プロを目指すこの数年間、私は毎回定段戦に参加する時、なぜか心が乱れやすくなり、勝ちたいという気持ちと負けたくないという恐れがあり、前を目指しながら後ろを向いて振り返り、そのせいで碁の技術に悪影響を及ぼし、囲碁を楽しむこともできなくなりました。特に負け込んだとき、囲碁を大嫌いになります。なぜなら、その失望感はどうしても慰めることができないからです。

 

特に調子が悪い時、私は本気で囲碁を辞めることを考えました。その時、両親が支えてくれました。両親は私を100%信頼し、全く諦めませんでした。

 

2014年の定段戦は、私が8回目の挑戦でした。その時、私は13局打ち、最初の数ラウンドは調子が非常に良かったですが、最終局では布石でうまくいかず、全く歯が立たず、チャンスがありませんでした。私は最後まで諦めず、心の状態を調整し続けました。

 

おそらく安定した心の状態、そして持続力のおかげで、最終成績が出された時、私は9勝の中でスコアが最高でした。当時は上位5名しかプロになかったのですが、私はちょうど第5位でした。

 

私はついに定段戦に合格し、その「狭き門」を通り抜け、プロ棋士になりました。何年も待ちに待った夢が叶ったその瞬間、私はぼう然としました。昔はプロ入りに成功する夢をよく見ていました。夢の中で大喜びし、沸き立ちますが、実際に合格した後、座ったままでぼう然としました。「本当にプロになったの?」と信じられませんでした。定段戦が終わって2日くらい経つと、徐々に実感がわいてきました。私は囲碁のプロ棋士になったのです。

 

 

囲碁のプロ棋士になり、まるで新しい世界に入るようなものですが、その新しい世界の道は険しく、相当難しいものでもあります。

 

19歳でプロ棋士になった時、自分が掲げた目標は、全国大会優勝になることでした。そして、国を代表して世界戦で外国人棋士を打ち負かしたいと考えていました。プロ入り後最初の2年間、私は「新しい領域を挑戦し始めることは楽しいだろう」という勢いを持っていました。しかし、3年目になると、勢いがなくなり、なぜこの道のりはあまりにも長いのか、ずっと前に進んでいるけど、先が見えないと感じました。

 

2018年、24歳の自分は大会に出たいが、所属先がない状況に陥り、手合いがなければ、プロのキャリアは終わることを意味していたからです。私は北京の道場の先生に連絡し、大会に出る許可をもらいましたが、最初の対局で負けてしまいました。その夜、一緒に食事をしていると、先生が私に向かって、子供の頃とても優秀だったでしょう?子供の頃は碁がとてもうまかったけれど、今はどうして勝てないの?と言われました。私は本当に泣きたくなりました、なぜ今はこんな状況になってしまったかと考えました。

 

その大会では1局も勝てず、7連敗しました。私はその先生に顔向けできませんでした。大会に出るの機会を与えたのに、ひどい成績を残してしまい、その時私のメンタルはズタボロでした。囲碁に対する失望感が蓄積し、自分は努力しているのに、時々、努力が報われないと感じました。

 

その後の3年間、私は色々なことを試しました。韓国語の勉強、韓国の道場で囲碁の修行、ライブ配信の仕方、都市囲碁リーグの解説をしましたが、大した結果を残しませんでした。私の人生は停滞しているように感じました。囲碁の成績はそこまで良くないが、たまには勝てるのでそこまで悪くなかったです。

 

2022年4月、私は27歳になりました。このままではいけないと感じ、将来のために何か考える必要があると思いました。また、家賃や生活面の問題にも直面していました。私は囲碁学校に連絡を取り、面接を受け、インストラクターへ転職することを決意しました。

 

その時、私のBilibiliアカウントのフォロワーは4万7千人ほどでした。私は囲碁先生になる前の二週間で、精一杯ライブ配信して、毎日300人ずつフォロワーを増やし、フォロワーを5万人に達成してから就職することにしました。その後ライブ配信の時間は取れなくなるかもしれないので、このアカウントと最後の別れをすると思いました。

 

しかし、運命は本当に不思議です。今の言葉で言うと、その時私の運命のルーレットが廻り始めたのです。

 

私が就職する数日前、私はライブ配信でファンと交流していました。あるファンの一人が私にネット掲示板のコメントを見て「号泣」できるかどうかのリクエストがきました。私はその時心の中で、「もう大会に出ないと決めたし、傷つけられる言葉はあるのか?」と思いました。そして、囲碁のネット掲示板を開き、私に対するコメントを見てみることにしました。すると、一人のネット民が他の人の攻撃的なコメントで、私を擁護するのためにこういうコメントしていました。「戦鷹のライブ配信は何が悪いの? 彼女は囲碁の大会で稼げず、稼ぐ手段はライブ配信しかない。そうでなければ、彼女はどうやって生活するの?」と書き込んでいました。

 

私はこの言葉を見たとき、一瞬ぼう然しました。その言葉はあまりにも現実すぎました。過去数年間、私は常に自分を慰め、自分は十分頑張っている、良い成績を持っていると自己満足していました。しかし、このコメントを見たとき、それは私の全ての偽装と自己満足を打ち破り、心の奥深いところまで直接突き刺さりました。私は我慢できなくなり、その場で泣き崩れました。

 

しかし、私はその「号泣」の動画がたくさんの人々に拡散されることになるとは思ってもいませんでした。恐らく彼らはそれを非常にリアルだと感じ、多くの人々が努力しても報われない時期があると思うでしょう。その後、私のライブ配信ではますます多くの人が集まりました。その間、10日間大会に出場するため、ライブ配信を10日間休みました。配信再開後、まさかみんなが自分の配信再開を待っていました。 その時、初めて私のことをみたい人が実はたくさんいることに気づき、私のライブ配信を楽しみにしている人がたくさんいることに気づきました。

 

その時、私は決断しました。就職を1ヶ月や2ヶ月延期して、ライブ配信を試してみることにしました。当時は年末で、この人気は年末まで持つことができれば良いと考えていました。しかし、人気は予想以上にありました。私のファンもだんだん増えてきて、そして囲碁のライブ配信一本で食べていけることに気づきました。

 

 

私は囲碁のライブ配信と解説が大好きです。それを通じで、囲碁についての解説、そして棋士の日常や囲碁に関連する面白い話題について語ることもできます。

 

数年前、あるテレビドラマの制作チームから連絡がきて、囲碁についてのストーリーを撮影すると話ました。制作チームは私に主人公の囲碁指導を任せました。打ち合わせ当日、私は少し身なりを整え、赤いドレスを着て、イヤリングをつけ、髪を洗い、ナチュラルメイクをして出かけました。

 

私が座っていると、女優さんが入ってきて、女優さんが最初に話した言葉は、「囲碁のプロ棋士がこんなにオシャレだとは思わなかった」でした。彼女は完全に驚いたようでした。彼女は、囲碁をする人は山の奥に住んでいて、着物を着て、毎日修行していると思っていたと私に話ました。その時、私は囲碁について分かっていない人が多すぎることに気付き、また、囲碁棋士の本当の姿を理解していないことに気付きました。囲碁の普及はまだまだ長い道のりがあると感じました。

 

私のライブ配信の最初の目的も非常にシンプルでした。皆さんに囲碁をわかりやすく説明したかったのです。それは、囲碁ができるかどうかとは全く関係ありません。これは私の願いの一つです。

 

私は自分がとても運がよかっただと思います。困難を乗り越え、今は本当にたくさんの人々が私のおかげで囲碁に注目し、囲碁を好きになってくれています。

 

 

最後に、私の名前について話したいと思います。

 

初めて私の名前「戦鷹(Zhanying)」をネットで見た多くの人々は、それがニックネームだと思っていましたが、実は私の本名です。私の父は戦闘機のパイロットで、私が生まれる前に、母と相談して、生まれた子が男の子でも女の子でも、名前を「戦鷹」にしようと決めました。鷹は空を駆けるという意味で、彼らは私が勇敢で、簡単にはあきらめない人になることを願っていました。

 

現在の私は、この名前の期待通りで歩んでいると思います。12歳で北京に来てから今年で17年目になりますが、この17年間、何度も諦めかけました。しかし最終的には、私は継続することを選びでした。しばらく我慢してみる、もしかしたら違う結果が待っているかもしれない、という感じです。定段戦で7度失敗した時、私はまだ諦めず、8回目でプロ入りに成功しました。その後、転職を決意して引退しようとしたとき、私も諦めず、結果自分にふさわしい道を見つけました。

 

これらの経験の中で、私にはとても大事なことを感じました。それは楽しむことです。あらゆることに楽しさを掴むことです。

 

多くの人が、お前はもうすぐ30歳のくせに、まだ子供のようだと言います。実際、去年転職を決意してから、毎日囲碁の勉強をすることはなくなり、私の本性がようやく解放されたように感じます。子供の頃にできなかったことがたくさんできました。あの時食べられなかったものを食べたり、遊んだりします。実は自分の少年時代を再び体験していることです。めちゃくちゃ楽しいです。

 

私はとても楽観的な人間です。以前、定段戦で失敗するたびに、「もう1年頑張ってみましょう。あなたは素晴らしいです。あなたの成績はよくできています。あなたはすでに一生懸命です」と自分を慰めました。これらの言葉を毎日自分に話しています。

 

「号泣」の日、配信が終わって約10分から15分後、私は冷静になりました。生活は続けなければならないし、明日も相変わらず頑張らないといけないです。

 

私は非常に満足できる人間です。運命が私に与えたあらゆる物事は、それが最高だと思います。私は常にこう「それは素晴らしい、それは今の最適な選択肢、すべてのことが私に有利です。」と考えています。

 

これらすべては、囲碁が私にくれたものです。

 

少年宮で、ほどんどの女の子が最初に選ぶことは歌うか踊ることですが、私は子供の頃から碁盤の前で戦っていました。しかし、実際には、囲碁を学ぶことは私の人生で最も正しい選択であると思います。囲碁のおかげで自分の世界観を作り、「平常心」の意味を教えてくれました。

 

この3年間、私の人生は突然広がったように感じました。年齢がもたらすのはプレッシャーや悩みだけでなく、機会や経験もあります。今、もし過去の自分に話しかける機会があれば、私は言いたいと思います。「もう少し楽しみましょう。目の前の局面に悩んで悲しんではいけません。焦らず、迷わず、いつかは輝ける場所があることを信じてください。」

 

以上です、ありがとうございました。